第4話日本のバブルよ、もう一度 2.日本のバブル発生と崩壊

日本のバブルよ、もう一度
その2
日本のバブル発生と崩壊
戦後の日本の高度経済成長から、米への輸出が増え、米の日本への貿易赤字は膨張した。そこで、米は輸入超過で膨らんでいた日本への借金を減らそうと考え、1985年9月プラザ合意で、G5諸国(日・米・独・仏・英)と協調介入する旨の共同声明を発表。しかし、これは実質、ドル安、円高にするという合意で、これにより急激な円高が進行した。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸。円高になることで輸出が減り、不況になるのではないかと懸念した政府が金利を下げ、低金利政策が継続された。これが、不動産や株式への投機を加速させ、バブル景気加熱をもたらした。また、円高により、日本経済の規模は相対的に急拡大。バーゲンセールで、米国資産の買いあさりや、海外旅行ブーム、低賃金国への工場移転等が相次いだ。
日本では投機熱が加速、特に株と土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。土地を担保にお金を借りて、その資金で新たに土地や株式を買い増す。新たに買った土地が値上がりすることをあてこんで、それを担保にしてまた、お金を借りて土地や株式を買う、無限の連鎖が日本を覆った。
1980年代後半には東京の山手線内の土地価格で米国全土が買えるというほど日本の土地価格は高騰。日経平均株価は1989年12月のピーク時には最高値38,915円を付け、資産価格のバブル化が起こった。日本中に札束が乱れ飛んだ。
不動産や株式をはじめとした時価資産の資産価格が投機によって実体経済の経済成長以上のペースで高騰し続けるバブル景気は、資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象である。ただし、人々が好景気の雰囲気を感じ始めたのは1988年からで、1991年2月のバブル崩壊後の数年間はバブルの余韻がまだ残っていた。
バブル景気は資産価格が高騰するほど、維持が困難になる。やがて資産価格が高い水準で均衡すると、もはや値上がり益を得られない。資産価格上昇により、土地や株式などの収益率が著しく低下していたため、金融緩和の終了で持続できなくなった。
株式や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタルゲインを当てにして過大な投資をしていた企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。
1990年頃から、バブルは土地や株の高値を維持した投機意欲の急激な減退によってしぼんでゆく。また、政府による総量規制や日銀による金融引き締めがバブル崩壊に拍車をかける形になった。
株と土地が下がりだし、借金の担保割れで、貸出金を返済するか担保を増やさなければならない状態になったが、借金元手に値上がりを狙って、買いまくっていたので、借りたお金で投資していた人には、新たなお金や担保となる資産などどこにもなかった。
後に残されたのは借金の山だった。借り入れにより、土地投機を行っていた、不動産会社、建設会社、ゴルフ場会社、ノンバンクは次々と返済不能に陥った。株式運用に失敗して倒産した企業も続出。また、それ以上に土地を担保に融資を行った銀行やノンバンクの融資の焦げつきで、不良債権問題、金融機関大型倒産が軒並み増えた。国中を席巻した熱狂的な投機熱は一気に冷え込み、多くの企業や個人が泡のように消え、バブルが崩壊した。
株価も、1989年2月に最高値38,915円を付けたのをピークに暴落に転じ、湾岸戦争と原油高や公定歩合の急激な引き上げで、1990年10月には一時20,000円割れと、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。
1993年から1997年にかけて不良債権問題や株価低迷によって大手金融機関が次々と破綻に追い込まれた。また、政府の経済政策の失敗も拍車をかけ、1997年以降の景気が急速に悪化。企業の倒産や人員削減による失業、新規採用抑制による苛酷な就職難が発生した。
政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていたが、1995年頃より方針を変えた。1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。
かつて海外の不動産や資産、企業を購入して進出していた企業が、本業の業績悪化に伴い、撤退を余儀なくされた。三菱地所は、ロックフェラー・センターを、買収額を大幅に下回る価額で手放さざるを得ず、大きな損失を出した。
民間企業の倒産やリストラが相次ぎ、新規採用が絞られる中、一転して公務員の人気が高まった。バブル期には見向きもされなかった公務員だが、景気の動向に左右されにくいというその堅実性から公務員を希望する学生が増加した。
金融機関の不良債権問題が深刻になった時、早期に財政資金を投入して破綻した金融機関を救済すべきであったが、政府の対応も遅れた。早期に公的資金の注入をしていれば、問題の拡大を抑制でき、結局は国民の負担も少なくて済んだのではないかともいわれている。こうした反省から、2008年の世界同時不況の際には、金融機関にいち早く公的資金を投入するように日本が世界に働きかけ、比較的短期に不況を切り抜けた。

日本のバブルよ、もう一度 その2 (2012年10月号)

日本のバブル発生と崩壊

戦後の日本の高度経済成長から、米への輸出が増え、米の日本への貿易赤字は膨張した。そこで、米は輸入超過で膨らんでいた日本への借金を減らそうと考え、1985年9月プラザ合意で、G5諸国(日・米・独・仏・英)と協調介入する旨の共同声明を発表。しかし、これは実質、ドル安、円高にするという合意で、これにより急激な円高が進行した。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル120円台まで急伸。円高になることで輸出が減り、不況になるのではないかと懸念した政府が金利を下げ、低金利政策が継続された。これが、不動産や株式への投機を加速させ、バブル景気加熱をもたらした。また、円高により、日本経済の規模は相対的に急拡大。バーゲンセールで、米国資産の買いあさりや、海外旅行ブーム、低賃金国への工場移転等が相次いだ。

日本では投機熱が加速、特に株と土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。土地を担保にお金を借りて、その資金で新たに土地や株式を買い増す。新たに買った土地が値上がりすることをあてこんで、それを担保にしてまた、お金を借りて土地や株式を買う、無限の連鎖が日本を覆った。

1980年代後半には東京の山手線内の土地価格で米国全土が買えるというほど日本の土地価格は高騰。日経平均株価は1989年12月のピーク時には最高値38,915円を付け、資産価格のバブル化が起こった。日本中に札束が乱れ飛んだ。

不動産や株式をはじめとした時価資産の資産価格が投機によって実体経済の経済成長以上のペースで高騰し続けるバブル景気は、資産価格の上昇と好景気、及びそれに付随して起こった社会現象である。ただし、人々が好景気の雰囲気を感じ始めたのは1988年からで、1991年2月のバブル崩壊後の数年間はバブルの余韻がまだ残っていた。

バブル景気は資産価格が高騰するほど、維持が困難になる。やがて資産価格が高い水準で均衡すると、もはや値上がり益を得られない。資産価格上昇により、土地や株式などの収益率が著しく低下していたため、金融緩和の終了で持続できなくなった。

株式や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタルゲインを当てにして過大な投資をしていた企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。

1990年頃から、バブルは土地や株の高値を維持した投機意欲の急激な減退によってしぼんでゆく。また、政府による総量規制や日銀による金融引き締めがバブル崩壊に拍車をかける形になった。

株と土地が下がりだし、借金の担保割れで、貸出金を返済するか担保を増やさなければならない状態になったが、借金元手に値上がりを狙って、買いまくっていたので、借りたお金で投資していた人には、新たなお金や担保となる資産などどこにもなかった。

後に残されたのは借金の山だった。借り入れにより、土地投機を行っていた、不動産会社、建設会社、ゴルフ場会社、ノンバンクは次々と返済不能に陥った。株式運用に失敗して倒産した企業も続出。また、それ以上に土地を担保に融資を行った銀行やノンバンクの融資の焦げつきで、不良債権問題、金融機関大型倒産が軒並み増えた。国中を席巻した熱狂的な投機熱は一気に冷え込み、多くの企業や個人が泡のように消え、バブルが崩壊した。

株価も、1989年2月に最高値38,915円を付けたのをピークに暴落に転じ、湾岸戦争と原油高や公定歩合の急激な引き上げで、1990年10月には一時20,000円割れと、わずか9ヶ月あまりの間に半値近い水準にまで暴落した。

1993年から1997年にかけて不良債権問題や株価低迷によって大手金融機関が次々と破綻に追い込まれた。また、政府の経済政策の失敗も拍車をかけ、1997年以降の景気が急速に悪化。企業の倒産や人員削減による失業、新規採用抑制による苛酷な就職難が発生した。

政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていたが、1995年頃より方針を変えた。1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、山一證券、など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。

かつて海外の不動産や資産、企業を購入して進出していた企業が、本業の業績悪化に伴い、撤退を余儀なくされた。三菱地所は、ロックフェラー・センターを、買収額を大幅に下回る価額で手放さざるを得ず、大きな損失を出した。

民間企業の倒産やリストラが相次ぎ、新規採用が絞られる中、一転して公務員の人気が高まった。バブル期には見向きもされなかった公務員だが、景気の動向に左右されにくいというその堅実性から公務員を希望する学生が増加した。

金融機関の不良債権問題が深刻になった時、早期に財政資金を投入して破綻した金融機関を救済すべきであったが、政府の対応も遅れた。早期に公的資金の注入をしていれば、問題の拡大を抑制でき、結局は国民の負担も少なくて済んだのではないかともいわれている。こうした反省から、2008年の世界同時不況の際には、金融機関にいち早く公的資金を投入するように日本が世界に働きかけ、比較的短期に不況を切り抜けた。

fraser_oct2012

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